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川尻松子という人物をいかに観客に納得させるか。

 30日の夜、品川club EXシアターにて桜井玲香さん主演の舞台「嫌われ松子の一生」(赤い熱情編)初回公演を鑑賞してきました。本記事では、この作品についての僕なりの解釈を書きます。演技についてはまだ触れていません。また後で別に書くつもりです。

以下の内容はネタバレを含む気がしますので、神経質な方などはご遠慮ください。










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 絶望というものは希望のあとにやってきます。希望が間に顔を覗かせるからこそ、絶望はより深く、重くかさなり、のしかかっていく。

嫌われ松子の一生」はそんな話です。

一言でいえば、松子が堕ちていく絶望の話。しかし、それは希望との対比の中で描かれています。決して絶望だけの話ではない。

 ツイッターを見ていたら、「嫌われ松子というけど、松子は愛されていたんだ」というような感想がいくつかありました。それはこの「希望」に焦点を当てているわけです。だから当然といえば当然。

 しかしながら、私の感想としては、結局これは絶望の話であるということに変わりはありません。作品の焦点は希望ではなく絶望に当てられている。

 松子はなぜ絶望の波にのまれていくのか。いかにしてのまれていくのか。それがこの作品の本筋です。

 そしてもうひとつ。作品紹介の中には「松子と彼女を取り巻く6人の男たちとの愛憎劇」というようなものもあり、松子と6人の男たちが作品世界において同等の価値の存在であるかのように受け取られかねませんが、これはあくまでも松子の話です。男たちの話ではありません。そんなことは分かっている、と思われるかもしれませんが、これが大変重要で、極端な話、男たちというのは松子の希望と絶望を演出するための装置でしかない。それらのきっかけとなる事象を産み出せばそれで良いのであって、作品世界において松子を「食う」存在であってはいけないのです。男たちの感情は、あくまで松子の感情を彩る飾りとしてとどまらねばならない。どこまでも松子が中心にいることがこの作品を成立させるのです。そうでなければ、話の軸と魅力がブレてしまう。また、上演時間の制約からも松子だけにフォーカスが当たるべきなのです。

そういうわけで、主役の松子は想像以上に"主"役なのです。

それでは、そんな絶対的な中心人物である松子とはどんな人物なのか。僕の解釈では、彼女は依存の人です。不器用で、一つのこと、一人の人に病的なほどに依存してしまう。どうしようもなく愛してしまう。愛情深い性格だから、優しいから愛を与えるというよりも、愛にすがって生きている、そんな人物です。人との繋がりに生かされている。誰しもそういう面はありますが、その程度がはなはだしいのです。劇中の表現でいえば、燃え尽きるように生きているのです。

 忍者漫画「NARUTO」の中の印象的なセリフに「己にとって大切な者が必ずしも"善"であるとは限らない…(略)たとえそれが"悪"だと分かっていても人は孤独には勝てない」というものがあります。

 これが松子という人物をうまく言い当てられると思います。「なんでこんな男を好きになるの?」という感想を持つのはおそらく松子という人間をよく理解していないのだと思います。人を愛するということについての捉え方が違うのです。

 作品世界の中でこの松子が絶望にうたれて変貌していきます。最後、元来は孤独では生きられなかった人が孤独を選ぶようになる。その移り変わりは注目すべきポイントです。そして孤独を選んだ松子の結末。ただ6人の男が順々に出てきて、希望と絶望を繰り返して、というわけではありません。一人ひとりにしっかり役割があります。

 松子が男たちになぜ惹かれていくのか。松子の悲痛さを魅力的に(※ポジティブにという意味ではない)描く上で、この点は観客に納得させなければなりません。共感はさせなくとも。なぜなら絶望への助走として大変重要なのですから。この作品のおもしろさは蓄積していく色濃い絶望にあり、それが美しく描かれるためには、希望はまぶしいほど輝いていなければならないのです。だから、「そのとき、私は神様はいると思いました」と希望を見つけるシーンは、本当に救いがなければなりません。 なぜ救いになるのか、なぜ松子にとってその男が希望たりえるのか。一人ひとり理由は異なりますが、そこが納得できなければ、作品はつまらないものになるはずです。

 松子を演じる上で難しいなと思うのは、変化の蓄積をいかに表現するか、という点です。一回一回の絶望が全力でなければならない。それは松子の人物像、依存性を考えても必然であるのですが、一方では、単純に男に捨てられることへの絶望に加えて、積み重なる絶望に対する絶望という新たな要素も表現しなければなりません。全力の上にさらに積み重ねていく。それをいかにして、殺人、入水、あるいは、龍とのシーン、執拗に自分に対する愛を確認するあの行動といった、変化が顕在化していくシーンにつなげていくか。積もっていく負の感情をどう見せるのか。

 松子が絶望の人生とどう向き合っていくか。立ち向かっていくのか、はたまたあきらめてしまうのか。

 僕が好きなシーンは、入水自殺を止めた島津との幸せな生活が始まろうとした矢先、松子が小野寺殺しで警察に逮捕されるシーンです。髪を切って「生まれ変わり」、過去のことを見ないと言ってくれた島津との希望の生活。これまでの希望よりも確実に見えた希望(ところでこの一連のシーンの玲香さんがなんとも幸せそうで大変かわいく、それが後の悲しみとの対比においてもいい効果を発揮しています)。しかし、松子は絶望からは逃げられないのです。島津は忘れても、過去は松子につきまとい、絶望は警察に連れられてやってきます。必死にかばう島津。しかし、松子は「わかりました」と罪を認め連行されていきます。このときの悲しみたるや。他のシーンと違ってさりげない表現となるシーンですが、印象に残ります。「なぜ偽名を使わなかった?」松子は松子以外の何者にも生まれ変わることはできていなかったのです。このシーンはある意味で「"嫌われ"松子の一生」を象徴するシーンだと思います。

 反対に、僕がイマイチ気に入らなかった点をあえて挙げると、教会において龍が岡野に対して「松子は神だった。愛だった。」というシーン、そしてラストの終わり方です。

 松子が愛の人であることをわざわざセリフにするあのシーンは蛇足に感じます。それは、男たちとの希望のシーン、松子がいかに男たちに惚れているか、というところで見せるべきであって、セリフにされると冷めます。

 ラストの終わり方は、龍が松子の遺骨を抱くというもの。終盤はむしろ龍の視座に物語が移行していくのですが、これには納得できません。それこそ前述したようにブレています。松子の劇的な死で終わるのが美しいと思います。作品が龍と岡野の会話に基づいて過去が回想されていくという体だからこそ、ああいう終わり方なのかもしれませんが、あまり美しくない。

 というわけで最後には少し苦言を呈してしまいましたが、しかしながら総合的には、松子の悲惨な人生が観る者の心にも重くのしかかるほどしっかり描かれていて、桜井さんの命を削るような演技表現にも魅せられ、大変満足しました。

あと何公演か観に行き、なにか新たに感じることがあればまたブログを更新したいと思います。