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「君の足跡」を読んで

  よく、映画を観たあとに、パンフレットにある制作陣のインタビューなどを読んで、改めてもう一度観直すと、印象が変化したり、新たな面白さを発見したりすることがあります。
 生駒里奈ちゃんのファースト写真集「君の足跡」(本日2/24発売)は私がまさにそんな体験をした作品となりました。生駒里奈ちゃんとカメラマンの青山裕企氏とのインタビュー(https://cakes.mu/posts/12306)を読んで私がどのようにこの作品を捉えるようになったのかを、この記事では書きたいと思います。

 あらかじめ断わっておきますが、以下の私の感想は制作者の意図を断定する目的のものではなく、あくまでも一読者として私個人が勝手に想像をはたらかせたものであり、いわば私の見方あるいは解釈です。写真集としてひとたび制作者の手を離れたら、その解釈は読者の自由である、ということを前提に、数多ある意見の一つに過ぎないものとして許容されることを願います。


 まずは生駒ちゃんの上記のインタビューでの発言を引用をします。この作品に彼女はどのような意図で臨んだのでしょうか。
制服とか学校っていう「10代をテーマにした作品集を出したい」
アイドルが写真集っていうと、普通はその子の持っている良さだとか、素の部分を撮ってもらうものじゃないですか。でも私はそういうのじゃなく、こういう学校のシチュエーションだったり、10代の女の子が着る制服の良さを収めた作品集を作ってもらいたかった
ーーアイドル・生駒里奈を軸にした写真集ではなく、自分を素材にしたシチュエーションや衣装を見せるものにしたかった?
そうそう、そうなんです。(中略)乃木坂46の中でも、私って一番そういう制服の女の子の良さを伝えるのに向いてると思うんです。
 そして、次に同じインタビューでの青山氏の発言。
現役アイドルの生駒里奈を撮るからには、どこまでいっても“アイドル写真集”っていうパッケージから出られるものじゃないと思うんです。だから、ファンの方が見たいであろう写真を入れつつ、生駒ちゃんがやりたいことをやり、僕がやりたいこともやった
 ファンが見たい写真というのは、生駒ちゃんの言うように、「その子の持っている良さだとか、素の部分」を引き出した写真であって、それはたとえば表情から生駒ちゃんの人間性を垣間見ることのできるような、個性の強味をいかした写真でしょう。
 ところが、生駒ちゃんのやりたいこととは、生駒ちゃんらしさを消して、いわばマネキンと化すことであった。生駒里奈のビジュアルだけを切り抜いて、個性を排除した、その先の内面的個性を想像させないような写真です。生駒ちゃんは、10代の女子学生の持つ、成熟しきらない中性的な部分を、自身の身体的特徴や雰囲気に重ね合わせています。どうやら、彼女は自分自身を「10代」だとか「学生」だとかいった言葉が内包するイメージの象徴的存在として捉えているらしい。

 おもしろいのは、これらの要求が一見アンバランスに見えて、実は調和がとれているということです。写真集の中で、生駒ちゃんは無表情であったり、哀しみを漂わせたような表情が多く、それはある意味でマネキンらしさを演出するのに効果的でありながら、また、ファンが求める生駒ちゃんの持つクールさ、儚げな魅力を伝えてもいるわけです。さらに、以下で述べるように、この作品を生駒ちゃんの人生の歩みを隠喩する作品として見たときに、このマネキンとしての個性を削った生駒ちゃんこそが、作品を通して見たときに彼女の「足跡」を表現するのにかえって役立っているという不思議な現象に気づくのです。

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 青山氏はこの写真集を生駒ちゃんの成長の記録としても位置付けていることを、コメント(https://twitter.com/yukiao/status/687117720484106240)の中で語っています。
10代の、大人になる前の生駒ちゃんの成長を、しっかり将来に本という形で残してあげたい
生駒ちゃんが生まれた故郷である秋田の空気をいっぱい詰め込んで、そんななかで泣き虫だった生駒ちゃんも、いろんな困難を自力で乗り越えて、しっかりと立派に成長してゆく姿を残すことが出来るように、さまざまな工夫を凝らしました。
 この写真集が、生駒ちゃんの人生の歩みを隠喩するものであることは、題名の「君の足跡」でも表現されています。

 私はこの写真集は、生駒ちゃんが芸能界に入る前からはじまって、乃木坂46に入り、困難を乗り越え、成長し、強くなっていく過程をうまく描いていると感じました。

 彼女の故郷である秋田というのは、彼女が芸能界に入る前に住んでいた世界です。いわば、非芸能界の象徴です。しかし、写真集の撮影でその地に帰った生駒里奈は公的な存在、芸能人としての「生駒里奈」です。この変化、ギャップが見事に表現されているのが、最後の雪景色の一連の写真です。中でも、特に、見開きで生駒ちゃんが雪原に佇む姿を捉えた写真が続くページは対照的でおもしろい。子供らしいオーバーオールに身を包んだ生駒ちゃんは、ポージングも表情も幼く無垢で彼女の上京前のイメージです。一方で、次の、白いワンピースに身を包んだ生駒ちゃんは凛々しく、強さを感じさせ、それは乃木坂46に入り成長したイメージです。寒そうなワンピースの季節感のなさは、芸能界の非日常性を表しているものと捉えることができます。

 次に、中盤にある、黒いドレスに身を包み、ガッツリと濃いメイクをした生駒ちゃんと、白い制服に身を包み、自然体であどけなさの残る生駒ちゃんとの見開きでの対比も、また印象的です。もちろん黒ドレスが芸能人としての「生駒里奈」、白制服が芸能人になる以前の生駒里奈です。

 ところで、こちらも生駒ちゃんの人生において非芸能界の象徴であろう学校というものは、この写真集の中ではどのような意義が与えられているのでしょうか。

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 私がこの写真集をみて気になったのは、他者の存在の痕跡が徹底的に排除されている、ということでした。写真集全体を通して、生駒ちゃん以外の人物がまるで写り込まない。遠景にボヤけた影すらも見えない。このことが強烈な印象を与えるのは、違和感のせいでしょうか。教室、校庭、体育館。本来ならば学生たちで溢れているはずの場所。そんな場所に、人が存在しない。生駒ちゃんだけが、ただ一人存在している。生駒ちゃん個人にフォーカスを当てれば、どのシーンもありふれた日常的な光景なのに、周りに人の影がまるで存在しないことで、途端に非日常性を帯びます。

 もちろん、周りに学生がいたら撮影にならないだとか、生駒ちゃんという被写体を美しく見せるための障害を除いたとか、そんなような理由で生駒ちゃん以外の人が存在しないというのが真実であるかもしれません。しかしながら、私にはそれ以上の何かを感じさせたのです。

 学校という舞台は、生駒ちゃんの学生時代を彷彿させます。しかし、生駒ちゃんと、彼女のプライベートな学生生活というものはあまりうまく結びつきません。なぜなら、彼女自身がそこに触れるのを避けていたから。それは、乃木坂46のドキュメンタリー映画の中でも語られていた過去の苦しい記憶があるからでしょうか。自分はスクールカーストの底辺にいた、と回想する生駒ちゃんにとって、学校という舞台が意味するものを考えたとき、この写真集の中でそこに人の影が見えないのは、もしかしたら、ある種の記憶の美化あるいは過去からの逃避なのではないか、とそんなことを感じました。ここに見て取れる暗い一面は、彼女にとって負の側面であると同時に、危うげで不思議な、彼女のもつ魔性の魅力でもあります。すなわち、彼女の陰の部分が、アイドル「生駒里奈」の独特の魅力を形成するのに役立っているということを、改めて思い知るわけです。
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 生駒里奈ファースト写真集「君の足跡」はそういうわけで、生駒里奈の魅力が存分に詰まった作品です。ぜひご購入を。