『あさひなぐ』感想 「訳し方」

 映画『あさひなぐ』を観てきたので感想を記しておこうと思います。ちなみに、僕は原作の漫画も舞台版も触れずに行ったので予備知識はゼロ、さらに言うと薙刀に関する知識もありません。それから、この場面の誰ちゃんが可愛かった、のような感想はツイッターでやっているので、そういうものを求めていらした方は申し訳ないですが、期待に添えませんのでお引き返しください。

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 観終わった感想として僕が正直に感じたのは物足りなさでした。それでは、その物足りなさの正体はなにか、と明かしていきたいところなのですが、そのためには、その前に「原作モノを映画化することの難しさ」についての僕の考えを示しておく必要があると思いましたので、先にそちらから書かせていただきます。

 

 たとえば、原作で名言とされるセリフがあるとします。それが名言となるのは、そのセリフそのものの力はもちろんあるでしょうが、加えてそこに至るまでの「流れ」を受けてこそです。だから、ある特定のセリフやシーンだけを切り取っても、「流れ」を踏まえているかどうかで、その重さや良さに対する共感の度合いは変わってしまいます。

 いわゆる原作モノ、それも人気のある原作を映画化する際の難しさの一つはここにあると思います。すでに物語に理解のある人間、「流れ」を踏まえている人間は、時にそのことを自覚せずに、クライマックスとなる名言や名シーンが再現されているかどうかだけにこだわってしまう場合がある。しかし、これに対して、そうした予備知識のない人間は、切り取られた(あるいは「流れ」の十分に描かれていない)その一部だけを観ても、その名言の名言たる所以を把握できないのです。

 もう少し説明を加えましょう。たとえば、マンガと映画では当然、それぞれの中で使用される「文法」が違います。単純に「時間」という側面だけを観てもそのことはわかるはずです。原作では悠々と丁寧に描けていた物語を、映画では90分なら90分という短い時間の中に収めなければいけない。原作モノを映画化するというのは、つまりは翻訳作業で、こうした「時間」に限らず、あらゆる側面に注意を払いながら、いかに映画の「文法」に直して原作を描き直していくか、という作業ではないでしょうか。それは何も特定のセリフや特定のシーンに限らず、登場人物のキャラクター(性格)やビジュアル、その印象、重要度など、すべてに及びます。

「あの登場人物は原作で重要な役を担っていたのだから、映画でもそうあるべきだ」

 こうした意見は絶対に出てきます。ここで僕が言いたいのは、これらの意見が間違っている、ということではありません。しかし、「翻訳」という作業において、全ての要素をそっくりそのままコピーできないとき、何をどの程度、どのように取捨選択して訳すのかが重要だ、ということです。

 どの登場人物をどこまで掘り下げ、どのシーンを選び、どのセリフを言わせるのか。物語はどこから始まってどこで終わるのか。全て取捨選択です。その過程において、言語の翻訳作業と同じように、逐語訳にするのか(元の文を忠実に一語一語たどって訳していくこと)、意訳にするのか(全体のニュアンスや意味をくみとって字面にとらわれずに訳していくこと)、これら両者のバランスが難しいのです。 ここに技量やセンスが問われる。原作モノを映画化するとき、作る側も、原作を踏まえて観る側も、こうしたバランス感覚に対して、事前に先入観を抱いてしまっている(あるいは要望に応えるために抱かざるを得ない)のです。 だから先の例で言えば、「名言」や「名シーン」を切り取る、というのはいわば「逐語訳」的であって、言語におけるそれが時として意味を不明瞭にしてしまって効果的でないように、映画においても必ずしも効果的だとは限らないのですが、予備知識や先入観があるから、時にその判断がズレてしまう(映画で初めて物語に触れた人と)のです。

 この「訳し方」に対する評価というのは、好みの問題と言い切って差し支えないかもしれない。どの程度まで逐語訳して、どの程度まで意訳するのか。原作のファンで、あのシーンのあのセリフは、原作の通り忠実に再現してくれ、と思っている人と、映画だけ観に来て、映画作品として無理なくおもしろいものであることを望み、そこにおいて無駄な格好つけたシーンは排してくれ、と思っている人とでは、まるで好みが違います。

 だから、これ以降、僕はようやく本題に入って、最初に書いた「物足りなさ」について具体的に明かしていくつもりですが、それは僕の「訳し方の好み」に従って行われるものであり、その訳し方の好みが違えば、見方も評価も違うでしょう。

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  さて、僕はなぜ「物足りなさ」を感じたのでしょうか。それは、物語の軸がブレていたこと、それから登場人物の掘り下げが浅かったことの2点に起因すると考えられます。なお、これら2点はお互いに関連しあっていて、完全に切り分けられない側面もありますが、便宜上分けて説明します。また、反対に、この2点に組み込むのが多少強引と思われる要素があるかもしれませんが、そちらについても便宜上そうさせていただきます。

 

1.軸のブレ

 マンガと映画で「文法」が異なることを意識しなければならない要素として、「物語の軸」という側面に注目したいと思います。複雑な要素・場面をはらんだ物語を「この話は、こういう話である」という風に要約することを考えてみてください。周辺の装飾的な要素を取り除いていって残るもの、それを「軸」とします。マンガにおいては、たとえこの軸が多くても、一つを丁寧に描いて、終わったらまた次、というようにして対処できます。実際、多くのマンガにおいて、主人公がいても、それと異なる登場人物に焦点が当てられ、その成長を描くエピソードなどが丁寧に時間をかけて描かれ(つまりそこでは違う軸が扱われている)、物語に厚みを与えています。しかし、映画ではそうは上手くいきません。軸を増やしすぎて、描きたいものが多すぎてしまうと、短い上演時間の中で観客は焦点を合わせられず、感情移入したりすることに困難を覚えるのです。 劇場では一時停止して考えたり、前の場面に巻き戻したりできませんから。実際、本作において僕がそうした観客の1人でした。

 いわゆる、スポ根と呼ばれるジャンルにおける物語の軸として扱われやすいのが「成長」です。それは大きく分けると、精神的なものと技術的なものの2種類あって、前者がたとえば仲間との絆の大切さに気づいたり、諦めない意志の強さを身につけたりで、後者が体力がついたり、新しい技が使えるようになったり、とかであります。映画『あさひなぐ』においてもこれは例外ではないのですが、いかんせんその対象が多すぎた。主要キャストの二ツ坂高校薙刀部の6人全員について、この「成長」という軸が用意されていました。人によって、技術面がフォーカスされてたり(八十村)、精神面がフォーカスされてたり(宮路)、あるいはその両方だったり(東島)、いろいろではありますが、いずれにせよ僕には焦点が合わせにくかった。もう少しメリハリをつけて、あるいは、なんなら思い切って2人とかに絞って描いた方が良かったのではないかと思うのです。

 主要でない登場人物の描き方についても、僕は無駄が多いと感じました。これは原作を踏まえた人とそうでない僕のような人とでまた見方が分かれるかもしれないのですが、たとえば宮路の弟、薙刀の理事(?)などの周辺の物語は果たしてそれほど必要性があったのか疑問です。なにも、主要じゃない登場人物に存在価値がないなんて言っているわけではありません。それらの人物が主要人物を修飾したり、あるいは対比的に描かれたりして補うことで、物語の軸が太くなるということはたくさんありますし、本作でも一堂なんかはそうした役で必要であったと思っています。しかし、住職と理事との小競り合いなどについてはどのような効果を期待してのものであったか不明です。

 軸と直接的には絡んでいなくても、進行上の理由とかテンポの問題とかで必要とされる登場人物もいるとは思います。本作で言えば顧問の先生がその役で、実際に彼はとても面白かったですが、それにしてもそういう周辺人物はなるべく最小限に抑えるべきであって、やはり指摘した人物や場面については不要であったと感じるのです。

 しかし反面、逆に説明不足と感じられるシーンも多く、特にこの映画で描かれている薙刀という競技はまだマイナーですから、僕のような浅学の身として説明が欲しいところで無くてもどかしく感じたことが数回ありました。「上段の構え」や「八十村の剣道経験者特有の間合いの取り方」などについてがその例であります。さも当たり前のように進めて知識のない観客が着いていける(あるいは着いていけなくても気にならない)ものと、それでは置いてけぼりにされてしまうものとは、もっと丁寧に仕分けるべきです。説明といっても、全てが全て言葉による必要はないのですから、それこそたくさんあった試合のシーンの映像なんかを効果的に利用すれば、決まり手や気迫などについては言葉がなくても伝えられたでしょうし、たとえば「残心」についてはそもそも触れる必要はなかったのではないでしょうか。あれだけ試合数が多いなら、何本取ったら勝ちで、みたいなところの説明もわざわざ別個ですることはありません。試合の進行を見ていれば分かりますから。

 ようするに、この映画『あさひなぐ』においては、これらあらゆる理由によって物語としての軸のブレが気になり、ゆえに、物足りなさを感じたのです。

 

2.描写の浅さ

 そして、上で主要人物をめぐる物語の軸が多すぎる、と書いたのと重なるのですが、人物描写の浅さについても指摘しておきたいと思います。一人一人の描写にかけられる物理的な時間がそもそも短いのに、その限られた時間すら効果的に使っていたとは言えないと思います。

 それを特に感じたのが、合宿後の試合のシーンです。合宿であれだけの時間をかけてそれぞれの成長を示唆したにも関わらず、また振り出しに戻すかのような見せ方は今回効果的とは言えません。あれは、作品全体を通して東島に焦点を絞っていたりした場合など、もっと時間をかけて描けるときに使うべき見せ方ではないでしょうか。

 だからこそなのか(と単純にまとめてしまうのはどうかとも思いつつ)、肝心のそれぞれの「成長」の中身について、かなり段階を飛ばしてしまっているな、という印象を受けました。人は経験からか、鍛錬には時間がかかることを知っていますし、心の変化が一朝一夕におこるものでないことも知っていますから、それこそ「成長」というものは丁寧に時間をかけて描く必要があると思うのですが、ビフォーアフターのように変化の結果だけ見せられても、単純には気持ちが入らないものです。

 たとえば、良く言えば戦略家、その実逃げ腰の野上が己のそうした弱さに立ち向かう「成長」は紺野に強く当たるシーンで描かれましたが、あそこで触れられていたのは、その弱さをかすかに自覚してもがくという初期の段階であって、それをどう乗り越えたのか、という描写が不足しています。

 すべては書きませんが、このような、人物描写の浅さも物足りなさを感じた要因ではないかと思います。

 

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 さて、最後に少しだけ、八十村役の桜井さんについての感想を書きたいと思います。といっても、今回のように描写の浅い役についてその演技の良し悪しを語ることはあまり好きではないので、短めですが。

 上演前の舞台挨拶において桜井さんは、自分と八十村がまるきり違うからこそ、役として入って演じやすかった、と言っていました。これは本当でしょうし、確かに八十村の乱暴で品のない立ち居振る舞いなんかは桜井さんのそれとはまるで違います。桜井さん本来の気の抜けた感じが出ては役柄的に東島を潰してしまいますし、キャプテンとしては野上がいる。八十村はザコでもなければ、強者でもない。非常に中途半端な立ち位置にいるキャラクターであったと思います。

 しかし、そういう人物なのにも関わらず、繰り返すようですが掘り下げる描写が薄かった点は、女優桜井玲香を楽しむにあたっては物足りなかったと言わざるを得ません。八十村が作品世界の中で何か人間的に変化したかというとそういうわけではなく(特に彼女は技術面にフォーカスした成長だった)、あの作品の中で八十村として生きるのは難しかったのではないかなと思いました。桜井さん自身、内面的な演技というよりも、剣道経験者のくせが出てしまう薙刀さばきに苦戦したと、技術面での苦労を語っていましたし。

 次の作品は、そうした内面的な変化を魅せられるものであったら良いなぁと思います。