「墓場、女子高生」を観た。

  東京ドームシティシアターGロッソにて10/14-22まで上演されていた舞台「墓場、女子高生」を2度鑑賞した感想をつらつらと書き留めておこうかと思います。

 1度目は16日ソワレ。モバイル1次応募で確保したB列下手側の席でした。2度目は19日ソワレを当日券で確保し、X列中央付近の席でした。

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 B列は肉眼でも表情はよく見えるが、全体が見渡しづらく、X列はその逆。マスクをかぶるヒーローショーならともかく、表情を見たければ、X列(というか後方)は双眼鏡があった方が良いかもしれません。まぁ、そういうわけで、前後に極端な2席で観劇した次第です。


 Gロッソは高さのあるハコです(ちなみに、したがって、座席も前後で高低差が大きく、視界は確保しやすいです。)。その特性を存分に利用したセットが組み立てられていました。

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 同時に多数の演者が登場しても、それほど窮屈に映りませんし、動きが出やすいセットでした。上下方向も利用することで距離を取れるので、そういったところが演出にうまく生かされているとおもしろいと思います。


 さて、感想です。正直なところ、少し物足りなかった。おもしろい花をつけそうな種をまいたのに、その後の成長を観察しないような感じ。いくつか具体的に見ていきたいと思います。

・人物描写の浅さ
 まず登場人物が多すぎると思います。日野が主人公となっていますが、日野はメタ的には作品世界に能動的に影響を及ぼす人物であって、この作品はむしろそれによって影響を受ける日野以外の残された者たちの物語といった方がしっくり来ます。日野だけは作品を通じて変化がありませんから。よって、高校生7人と教師1人会社員1人の計9人(!)が、日野が作り出すきっかけ(自殺、復活、そして2度目の自殺)によって変化していく物語と言い換えてもいい。これを2時間の公演時間の中で描くには、人数が多すぎる気がします。人物間で描写の濃淡に差があればまとまったかもしれませんが、そこまでの差はなく、全体的にぼやけた印象を受けました。

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 たとえば、執拗に日野の墓を破壊しようとする納見や、オカルト部に転部した西川などの行動は、そこに至るまでの心理がもっと丁寧に描かれていたらおもしろかったと思います。西川と残された合唱部員たちが、日野の死との向き合い方をめぐって口論をするシーンも、それぞれの向き合い方、「整理」の仕方が十分には伝わってなかったので、セリフの迫力だけが独り歩きしているように感じました。日野の死がそれぞれに落とした闇に、深みが感じられなかったのです。
 

・高校生である必要性
 高校生、という年齢設定はもう少しいかされても良かったのではないかと思います。教師や会社員といった「大人」との対比としての「高校生」というニュアンス。確かに、自分たちのルールで自分たちだけの世界を作り出し、自分たちだけに通じる言語で遊ぶさまは、いかにも高校生らしい。すじょいせん!のようなフレーズは象徴的です。しかし、もっと負の側面といいますか、あの時期ならではの葛藤や不安も描いてほしかった。恋愛や友情、テストの結果や、親との仲。他の人からすればほんの些細なことでも、それによって世界がまるきり変わってしまうと信じて疑わないような、そんな多感な時期。種はたくさんあったんです。メンコの性の葛藤、西川の社会への漠然とした不信、武田のいじめ、などなど。しかし、ほとんどが浮ついて、本筋に絡まずに、ただその場限りの笑いに転換されて終わってしまっていました。合唱部ならではの悩み、ハモりがうまく行かないとか、そういうものもあっても良かったかもしれません。
  悩みの中身は別に何でもいいのですが、なぜこうした負の側面をもっと掘り下げてほしかったかというと、残された者たちがそれぞれ日野の死に責任を感じていた、という部分がより重みを増し、したがって、そこにつづく日野の、自殺の理由になるほどみんなとは仲良くなかったよ、というセリフがより強烈になるからです。それぞれが死の理由を美化するにも、元が汚れていなければ、その美しさは際立たない。ようするに、作品を通して、物語にもっと激しい起伏が欲しかったのです。
 
・笑いのバランス
 作品全体にわたるユーモア、笑いの要素の過度であったことも、私には疑問です。人の死を扱うにあたって、笑いという対照的な要素を利用することの効果は抜群であります。しかしながら、バランスが悪ければ、お互いの魅力を薄めてしまう。笑いによって、死が落とす影が薄くなってしまう。今作品は個人的には、そうした状況に陥っていた気がします。ひとつひとつのネタがおもしろくなかった、ということではありません。作品全体に及ぼす効果が、いまひとつ掴めなかったということです。たとえば、幽霊になった日野が冒頭から出演し、観客に見えている、という状態は、彼女の死のインパクトを弱めてしまっていたと思います。

 日野がひとりひとりに、自らの死の理由を美化させるよう問いかける場面は、私も好きな場面です。あそこにおける笑いの要素(ガンジーやら、クライドとボニーやら、フランダースの犬やら、なにもかもすべて)は絶妙だと思います。あそこの場面で、死の暗さと笑いの明るさの対比による面白さがピークに達する。しかし、その効果は、日野の死が落とした影が濃ければ濃いほど効いてくるものなので、惜しいなぁとも思いました。

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 ひとつひとつのシーンを細切れにすれば、おもしろい部分はたくさんありましたが、それに糸を通してひとつ大きな流れとして見たときに、不足を感じてしまった、というのが感想です。